和栗部長編

滝浦を育てた伊藤ハムの男たち

東北営業部に東京営業一課出身の都会センスを備えた和栗さんが東北営業部長で赴任してきた。当時、私は広い東北六県を夜討ち朝駆けで走り回っていたが最繁忙期の年末商戦前に持病を患い長期入院、会社の最重要営業時期を離脱した責任を問われ営業の最前線を外され営業一課に転属した。和栗部長の下、営業一課で伊藤ハムの事業基盤である商品政策、営業政策という「基本のき」を仕込まれたことで、後々まで海千山千の営業部門で幹部として生き延びることができました。そういう意味では和栗部長は私に再生転機を促した重要な一人と深感しています。

第1話 東京営業一課研修「初めてだからしゃーないか」と屈辱的な慰め言葉を受ける。

東京営業部に営業一課の神様がいるから研修して来いと言われ、昔から伊藤ハムは生産部で成り立っている会社と認識していたので、「たいした仕事はしていないだろう」となめてかかったのが大失敗、目黒事務所の営業一課に伺う。言葉少ない愛想のないおっちゃんが「東北地域の日本ハムとのシェア競争状態は、営業部の商品政策と営業実績は、東北工場の生産実績と工場成績は」事こまめな質問攻めにあい、まともな回答を一つも出せず、水入りのバケツを持って針の山に立たせられているような地獄の時間を過ごした。帰りがけ「初めてだからしゃーないか」と屈辱的な慰めの言葉を浴びせられふてくされて帰路に着いた。…営業一課長は営業に対しては「何をどれだけ、誰がいつどこに販売するのか」という明確な方針、方策を示し販売最前線における営業部隊の士気を高めながら、工場に対しては「何をどれだけ、いつ生産してどう営業前線に供給するのか」という兵站能力を兼ね備えなければならない(理数系低能力の私では絶対無理な仕事です)。ちなみに血反吐を吐いたら一人前の営業一課長だと誰かに言われた記憶がある、それだけ強い使命感を持ち責任感と義務感に追われる立場なんだろうと自問自覚するに至った。

第2話 パソコンという未知の世界との遭遇

35年ほど前の昔話です。商品担当部署として主要な業務の一つに工場の生産予算作成があります。工場運営の根幹に関わる最重要課題です全国の工場と連携を図りながら年間、月割、週割、日割りを全商品個別に作成する難関で、珠算の有段者を三人配置しても夜明け頃そろばんを放り投げてあくびをする日々が続くという惨状です。経理部門がパソコンをテスト導入するという情報を得る、日経のセミナーでよく電子化とかパソコンの活用などと見聞きしていたが、パソコンメーカーの宣伝で他人事と思っていた。

経理の若手社員が手際よくキーボードを操作している。俺に教えてくれと頼みこんだが断られ、夜間に経理事務所に忍び込んでいたずらしてみたら、そろばんが出来ない私でも簡単に加減乗除計算ができた。経理に正式なパソコンが導入され、デモ機を譲り受け独学で没頭する日々、周囲から「パソコン課長」と笑われながら操作を身に着けた…独学ゆえに進歩遅く先々苦労しました。最初は人差し指一本でひらがな打ち込み、効率悪く今思えば笑い話です。

年度予算の計算式作成に長い時間を要したが式さえ出来上がればミスなく瞬時に結果が出る。珠算の有段者を目の前に検証してみせた。構成比・伸長率・割振り率・重量・金額など基本データを書き添えるだけで何枚にも重なる予算書が瞬時に完成した。案の定みんな笑いながらそろばんを机にしまった。…今は全社員が専用のパソコンを目の前にして業務を管理運営するのが常識で、パソコンのない仕事など仕事でない世の中になりました。

福島県で博覧会が開催され、伊藤ハムが食材供給メーカーとして参加、当然のように「滝,お前が行け」です。管理職とデリバリー担当を連れて郡山営業所に間借り常備して2か月半ほど、ここでもパソコンが効力を発揮しました。受発注計算式を作成、協会が算出する入場者予測を記入、曜日、天候、イベント内容を考慮して指数を打ち込めば何をどれだけ発注すればよいか一瞬で明示されます。人力でやっても当たり外れがあるわけで、指数の誤差等全く問題ない。

つづく

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